前回に続き音楽についてもう少し書いてみたい。
古いふるい話であるが、
孔子(紀元前552年~紀元前479年)の音楽観に耳をかたむけたい。
孔子と言えば「言葉」と「礼」の人というイメージが強いが、
両者とともに、むしろそれら以上に「音楽」へのこだわりが
ハンパでない人であった。
それを伝えるフレーズが『論語』のなかに残されているので、
ひろってみたい。
「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」
詩→礼→音楽の順に学び、音楽によって学び=人格が完成されるという。
「六十而耳順」
「四十にして惑わず」があまりにも有名だが、
そのあとは
「五十にして天命を知る」
「六十にして耳順(したが)う」
と続く。
言葉・礼・音楽に接し、ブレることなくありのままを感じられるようになるには、
60年の歳月・学び・成長を要するという孔子渾身のメッセージ、実に深い。
至高の音楽に接した孔子の感動がどうであったか、
そのありさまを映し出すように語った弟子の言葉が残されている。
少し長いので原文は割愛するが、エピソードはこうである。
斉(せい)の国で「韶(しょう)」という音楽を聴いた孔子は、
3ヶ月間それを学んだ。
その音楽のあまりの素晴らしさに引き込まれ恍惚状態になってしまったため
3ヶ月間食べたものの味を全く感じなかったという。
私にとって音楽最大の魅力は「調和」であるが、
斉の国での孔子は人と音と天の調和を聴きとり、
そのあまりの素晴らしさに
我を忘れるほど感動したのではないだろうか。
完璧なる調和は古代の音楽が究極にめざすところであると同時に、
太極拳のめざすとこでもある。
よき音楽は音で書かれた太極であり、
音と体というメディアの違いはあっても、
使われている文法や表現の深淵はいずれも共通するように思うのだが、
どうであろうか。